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プロフィール

phary

Author:phary
ぐーママことphary    
在独○○年、何事も適当なぐーたらママ。
永遠のオバフィー・プレ老女。
信条:他人に厳しく、自分に甘く。厳しく追求他人の失敗、笑ってごまかす自分の失敗。
明日できることは今日やらない。  
    
タル
2004年9月3日生まれ。
2006年9月よりニューハーフ。
ヨーキーとチワワのミックス犬。
なのに体重5,2㎏まで体重が増え、万年強制ダイエットチウだった。
16歳の現在、椎間板ヘルニア、甲状腺機能低下症を患い4,3㎏まで体重が落ちるも食欲旺盛。大好物は食べられるもの全部。
目指せ元気に20歳!
のはずだったけど、2020年12月16日没。
享年16歳と3か月。

チョコ
2022年6月9日生まれ
同8月5日よりぐー家の一員となる。
2.4kgのママヨーキーと7kgのデカヨーキーパパの子。
一体どれぐらいの大きさになるのか予測不能の活発女子。

だんな君
自分は絶対悪くない症候群の偏屈ドイツ人。
DIYので腕はプロも顔負け、匠の技。
ヒトミシラー。

おねえちゃん
何事にも200%で立ち向かう努力の人。
東京のドイツ系会社勤務、ドイツ本社への出向を経て現在本社勤務。

B君
トム・クルーズ似と噂のおねえちゃんの伴侶。
おねえちゃんとは商売敵もとい同業者。
いまだかつて目の前のお皿の上のものを残したことがないらしい。

Aちゃん
おねえちゃんとB君の息子。2023年4月生まれ。
おねえちゃんは日本語で話しかけているが、果たしてクォーターちゃんのバイリンガル教育は成功する?

おにいちゃん
典型的オレ様主義のジャニーズ系イケメンだったが結婚して以来幸せ(?)太り。今じゃ妊娠8ヶ月級のドスコイ系。
思いもかけずイクメンだった。

Mちゃん
オレ様おにいちゃんのオシャレでお料理上手な奥さん。
 
Dちゃん
おにいちゃんとMちゃんの息子。
2016年10月生まれ。
ジャニーズ系イケメンになりそうなかわいい子。
日独越語のトリリンガル。
ぐーママの日本語を分かっているのかいないのか、片言日本語で返してくれる。

末っ子
ぽっちゃり系キャピキャピ女子。
バックパックで世界一周旅行から帰ってきて新しい就職先が決まる。
現在の趣味はボルダリングと自転車、ハイキング。
料理上手、ケーキ作りも得意。
  
  
  
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2020/02/26 (Wed) 07:49
ホームシックだったわけじゃない



こんにちわんこ。
今回はママリンの
今回はママリンの 思い出話なんだよ
思い出話なんだよ、のタルです。




この記事→恩人と言ってもいいお友達
ぐーママことpharyが

おドイツに来たばかりのころ精神的に落ち込んでいた。

と書いたのですが、
それはホームシックというより

不安感

と言った方がいいかもしれません。


ぐーママがおドイツにやってきたのは4月の初め。


3月末日まで仕事をしていたのにおドイツに来た途端に
無職・無収入

自分の収入がなくなるということは予想以上に心細かったです。

だんな君の口座から自由にお金を出してよかったのですが、
当時は銀行の窓口で下ろさなければならず、
おドイツ語ができないぐーママにはとてもハードルが高かったです。

なぜなら、
お金をおろすためには身分証明書(←日本人の場合はパスポート)の提示が必要で、
パスポートに書いてあるのは日本名。(←当時は国際結婚をした場合、戸籍上の名前を外国名に変えられなかったので)

苗字の違うぐーママがだんな君の口座からお金をおろすのに
銀行員にそこのところの説明を求められると

銀行員にそこのところの説明を求められると ↑を説明するくらいの英語力もなかったぐーママは

↑を説明するくらいの英語力もなかったぐーママは(←それでよくだんな君との会話が成り立ったと自分でも不思議に思ふ)

アウアウ状態

になってしまったのです。


一度だんな君が一緒に行ってくれて説明してくれたのですが、
違う銀行員になるとまた同じ質問をされ→アウアウ状態

当時は携帯電話もなかったので、
だんな君に電話して説明してもらうこともできませんでした。


(その後、パスポートには()付きでおドイツ名を入れてもらいました)


だんな君は毎日会社に行ってしまって日ッチウは一人ぼっち。
 
ドイツ語の学校に行くまでは一日中無言で家事をしていましたが、

二人だけの生活ですから
掃除も洗濯もあっという間に終わってしまい、
当時はテレビを持っていなかったので、
日本から持ってきた本を読むぐらいしかすることがありませんでした。

布を買ってきて刺繍をしたり、
毛糸を買ってきて編み物をしたり、(←だんな君のベスト、セーター、カーディガン、自分のセーター、カーディガン、おそろいのセーターと、立て続けに編んでいきました)
とにかく声を出すということがほとんどありませんでした。


当時だんな君とは英語で話していたのですが、
住んでいるところのお店の人たちは英語を話す人がほとんどいなくて、
おドイツ語が全然分からないぐーママは
↑のように銀行でも、買い物でも苦労しました。


パン一つ買うのにも
まず、

〇〇マルク(当時)です。

と言われたお値段が聞き取れない

言われたお値段が>聞き取れない. 何度も聞き返して、

何度も聞き返して、
挙句の果てに紙に書いてもらったこともありました。

支払いの時も、
小銭一つ一つを確認しないといけなくて(←1ペニヒと2ペニヒ硬貨、10ペニヒと20ペニヒ硬貨、1マルク2マルク硬貨がすごく似ていて、慣れないぐーママには見分けがつきにくかった)
もたもたしていると、
売り子さんがこれ見よがしに大きなため息をついたり、

あるときなどは、
さっとお財布をひったくられて
そこから勝手にお金を取られたこともありました。

後ろにほかの人が並んでいたりすると
待たせるのが悪くて(←あぁ、日本人)つい紙幣で払うことが多く、
お財布が小銭でパンパンになったり。

お釣りをごまかされたことも何度も。(←今思うと、ごまかされたというより、店員さんの計算の間違いに気が付かなかったのかも←おドイツの人って計算、特に暗算できない人が多いし)


何が悲しかったって、

いい大人の自分が、
言葉ができないために、
まともな人間として見られていないような気がして
ものすごく惨めな気持ちになったのです。


ちょっとしたことで涙が出たり
地下鉄に乗ると

地下鉄に乗ると 乗客がみんなぐーママを見ているような気がして怖くなったり

乗客がみんなぐーママを見ているような気がして怖くなったり

今考えると、
軽い鬱状態だったのではないかと思います。


T子さんと知り合ったおかげで
そんな鬱々とした気持ちかがかなり楽になったのです。
T子さん様様です。

思い切りおしゃべりするって
精神衛生上、非常に大事なことなんですね。

更におドイツ語を習い始めて(←それはそれでいろいろありましたが)
少しづつでしたがクラスメートやほかのおドイツ人との会話も成り立つようになって

離婚→帰国の危機を免れたのでした。



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コメント

私ね、お料理が出来る人って人との関係構築がスムーズに出来て問題が起こらないんだろうなって思っていたんです。
私と義母の関係が良く無かったのは私が料理が出来なかったせいだと思っていました。「今日は私が作るねー」と言えるような腕があれば上手くいったのかなぁって。
私も4月まで仕事をして5月にフランスに来てすぐにお腹に息子が出来て、夜に泣く息子をベビーカーに入れて外に出て空を見上げて(私もついこの間まであの空を飛び回っていたのに、いま何をしているんだろう)と思いましたね。
あぁ、今は強くなったもんですよ。。。料理の腕は変わりませんが。。。。


コメントありがとうございます。

*ミネットさん*
<私もついこの間まで~いたのに、いま何をしているんだろう>
そう、これ、これですよ。
私はたいそうな仕事はしてなかったですけど、一応一人前の大人としてやってきたのに、この落差は何?ですよ。
しかも、言葉ができないというだけで、社会不適応者みたいな感じに扱われて、自尊心も何も粉々でした。
子育ても、家事も大事な仕事ではあるのですが、社会でしっかり働いていたあの私はどこ?という焦りはずっとありましたね。(←その割に子育てチウに自分磨きとかしないで、そのままのんべんだらりんのぐーたら主婦になっちゃったんですけど)

実は私、新任のころ3年ばかり一人暮らしをしていましたが、その後は結婚するまで実家暮らしで、料理らしい料理を作ったことがない人でした。毎日のお弁当まで母に作ってもらっていたという、、、。だから、おドイツに来た当初はゴハン作りが本当に大変でした。今のように和食の材料なんて簡単には手に入らない時代でしたからね。ましてや、食べたことのないおドイツ料理なんて、、、。今思うとよく生き延びられたなぁって思います。義理母に初めて作った手料理はカレーという、、、。なので、義実家に行ったときは、義理母が料理するときべったりくっついてメモっていました。その割に作れる遅いつ料理が少ないですけど。
私の場合、何もできない嫁だったので、年に二度ほどの義実家訪問時に義理母のやり方をすっかりそのまま真似したのがよかったのかもしれません。義理母という人も、おドイツ人には珍しく、自分を強く出す人ではなかったので波風が立たなかったのかと思います。あちらがどう思っていたのかはともかく、、、。


今でも勿論国際結婚は大変だとは思うのですが、、それでもpharyさんがドイツに行かれたときは今とは比べものにならない位大変なんだろうな、、
ネットでパッと疑問に思った事を検索できない、
Skypeなどで気軽に日本にいる家族や友人とお喋りできない、、、
きっと今より何十倍も日本が遠く感じますよね。
私が小学生の頃、埼玉に嫁いだ叔母から沖縄へ電話が来ると、「埼玉からだよ、電話代高いから皆早く!」と急かされるように各々電話を変わりばんこで話してたのを思い出しました。それがドイツ〜日本間を考えると、電話も気軽に出来ないですもんね、、



コメントありがとうございます。2

*azuさん*
最初の落ち込み時期を過ぎたらあとはもうあまり大変だとも思わなくて「こんなもんだ。」とか「昔の人はもっと大変だったんだから」とか思うようになりました。この時はこんなになりましたけど、基本、「なるようになる。」って物事をあまり深刻に考えない人なんです、私。
何か用があってこちらから国際電話をかけるときは、「もしもしお母さん、かけなおして!」と言って即行電話を切って、母が(高いお金を払って)日本からかけなおしてくれるのを待っていました。i-235(←ズーズーⅭ娘)


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